5勝手連の拡大と乗り 04.10

BonShancar2005-01-06


 控訴審第2回公判の前日、私は土佐のキンドーと共に大阪拘置所桂川君と面会し、その並々ならぬ心意気に聞き入った。接見後、丸井弁護士と共に前回と同じ天満のお好み焼屋「てんご」を訪れ、勝手連の仲間約40人と救援会議を開いた。
 折から九州ツアーを終え、南信州へ帰る途中のボブ(内田晃正)が立ち寄り、私の詩「麻里花の花」に曲をつけた歌を披露したので、「花なのさ音頭」の手拍子が沸き上がった。
 会議にはいつも多種多様な仲間たちが集まったが、私の誘いに応じてお祭りフリークのきよう子が、2人の女友達を連れて来て一緒に記念写真をとった時には、あまりの“場違い”にビックリ、おまけに拘置所の近くに住むというのんちゃんから「桂川さんに面会に行っても良いかしら?」と訊ねられ2度ビックリ。


天然のハマリ  
   
大麻も吸わずに翔んでいるフリーク娘たちよ!
ミーハーを名乗る浪花のカマトト軍団よ!
あなた達の「天然のハマリ」と同じように
皆んな何かにハマッているのだ
大麻のハマリ」でパクられた被告桂川
検事や判事を「シラフのハマリ」と診断し
それが「シャブやヘロインのハマリ」より
醜悪で 破滅するまで自覚症状がなく
民を苦しめ 国を滅ぼすハマリだと警告した
もっとも「シラフのハマリ」の役人たちは
実は「アルコールとニコチンのハマリ」なのだが
       
「天然のハマリ」で翔んでいる浪花の天使達よ!
その存在の軽やかさと 華やかさにおいて
手錠と捕縛の囚人たちの対極にある者達よ!
拘置所の狭い面会室に 大輪の花々を咲かせて
透明プラスチック板のボーダー越しに
今や牢名主となった 噂の囚人桂川
あなた達がハマリの天然のパワーを注げ!
シャブやヘロインにハマッた同房人たちが
自分たちは犯罪者でなく 患者であり
刑務所ではなく 病院に入れるべきだと
先進国並みの主張を始めたのだから
    
ナチュラルハイで翔んでいる愛しの天然娘達よ!
ごらん 浪花の空に麻一揆の狼煙が上がる
理不尽な弾圧のもと ついに尻尾を捕まえた
大麻に関するウソとペテンの官僚システム
マスコミは無関心でも ミニコミは見逃さぬ
まして公判を傍聴したあなた達の口は塞げない
厚生省麻薬課の役人達が 押収した大麻を吸って
それが酒やタバコほどの害もないのを知りながら
めしを食うため 彼らは口を閉ざしていると
無実の被告桂川が 法廷で供述したことを
おしゃべりのたびに しゃべりまくれ!

04、10  大阪



10月13日、大阪高裁の第3回公判は前回に続く被告人質問が、ほぼ満杯の傍聴人を前に行われた。

 警察情報たれ流しの新聞やテレビでは決して報道されないが、大麻は今や芸能、音楽、アート、文学、スポーツ、レジャーなど、あらゆる分野に浸透し、大麻情報は若者向けの雑誌やインターネットに氾濫している。そこでは大麻の「有益性、無害性」は公知の事実であると桂川被告は現状を語った。

この供述に裁判官たちは驚いたらしく、被告人質問は次回第3ラウンドまで持ち越された。公判後、弁護士会館でミーティングがあり、麻生氏より日弁連への人権救済申立書の件が提起され、全員が署名した。

 この夜、私は「せいかつサーカス」の面々と南港の維新座前テント村を訪問、翌日は酸欠のためフラフラになって新幹線で帰宅した。

4控訴審が開始された04.9

BonShancar2005-01-05


裁かれるのはどっちだ?! −控訴審第一回公判傍聴記−

桂川救援全国勝手連 代表
ポン 山田塊也


 わが国の大麻研究の第一人者としてアングラ世界では知る人ぞ知る桂川直文君は、昨03年7月近畿厚生労働省麻薬取締部によって逮捕され本年4月大阪地裁にて「懲役5年罰金150万円という大麻事犯ではかつてない重刑判決を受けた。一人の被害者もなく、多くの人々に夢と希望と幸福と、そして健康を分かち与えた大麻の栽培と譲渡が、殺人罪並みの重刑に値するとは一体どういう理屈なのか。判決文に曰く「大麻の有害性が否定できないことは公知の事実といえる」だと。

 この裁判官や検事は最近の書籍やインターネットに溢れるヘンプ・ブームやマリファナ情報など一切シャットアウトしているのだろう。彼らの”公知の事実”とやらは数10年来の思考停止状態にあるようだ。現今大麻が有害だなどという若者はいないはずだ。

 「この裁判は被告が原告を裁く裁判になるだろう」と、被告桂川君は勝手連への手紙の中で予告した。その控訴審の初回公判が9月8日、大阪高裁で開かれた。

 公判前日、私は安曇野のクマ(窪田明彦)と共に大阪拘置所を訪れ、囚人桂川君に面会した。4月の再勾留後、スキンヘッズにしたという頭髪もすっかり生えそろい、表情もおだやかになって、今や雑居房の牢名主の風格さえ感じさせた。我々に次いで丸井英弘弁護士が面会し、入念な打ち合わせを済ませた後、その夜は台風接近のさなか、天満のお好み焼き屋で支援集会を開き、鳴り物入りの詩の朗読などで大いに盛り上がった。この高揚したボルテージは翌日の法廷にまで持ちこされ、定員40名の傍聴席はほぼ満員となった。

 開廷2時30分、黄色いTシャツに腰紐を巻かれて入場した桂川被告にも、傍聴席のバイブレーションが伝わったに違いない。いざ決戦の緊張のためか伏目がちに被告席に着いた桂川君ではあるが、権力のウソとペテンを論破する静かな自信に満ちていた。間もなく3人の裁判官が入場、初老2人、若者が1人、検事1人に弁護人が2人。全員起立して敬礼。制限時間は1時間。事務レベルの話が延々45分。弁護士側の証人申請はことごとく検事側が不同意。ただし裁判資料は丸井弁護士の著書やビデオなど全て受理。そして被告の本拠地である信州安曇野地方の住民197名による「減刑嘆願署名」には検事がケチをつけたが、「まだ100名くらい集まるそうです」という弁護士からのおまけがついて受理された。

 今回のハイライトはラスト15分間の弁護士による被告人質問だ。最初は10年前のアムステルダム大麻コンクール「カナビスカップ」に、審査員として参加した時の話から始まった。そこで品種改良された先進国のハイブリッドを吸って、その高品質に驚いた桂川君は、わが国の後進性を痛感したとのこと。そこで東京の厚生省麻薬局を訪れ、わが国の大麻研究の状況を尋ねたところ、厚生省はもとより、誰にも研究はさせていないという事実を知って驚き、自ら志願して翌99年に栽培免許を得て研究を始めたという。更に2002年にスイスのベルンで催された産業ヘンプの国際見本市「カナトレード」を視察した桂川君は、そのレポートを雑誌「スペクテーター」に発表してヘンプブームの到来を告げた。

 わが国に上陸したヘンプ・ブームは若者のファッションから日常生活の多様な方面にわたり、今や大麻の旧生産地の元生産者たちを鼓舞して、村興し、町興しのヴィジョンともなった。今夏は被告の本拠地である信州安曇野地方は美麻村で商工会主催のヘンプ産業見本市「美麻フェスティバル」が開催された他、高知県などでも同種のイベントが開催されている。今後産業大麻の復興は長野県を最前線として日本列島を席捲してゆくだろう。そして国立信州大学農学部では、ついに本年度より大麻の研究が開始されたのだ。

 資源小国の日本が麻の茎や実まで輸入している現実はどう考えたって馬鹿化ている。北海道では毎秋野生の大麻が大量に焼却処分されているのである。

 桂川被告のコトバに無駄はなく、考え抜かれたコトバが淀みなく淡々と語られ、全員が引き込まれるような話し方だった。特に傑作だったのは、取調べの状態に対する質問に答えて「11年前に長野県警にパクられた時、警察は大麻のことは何も知らず、法律で決められているのだから悪いものは悪いというだけ。ところが今回の麻取りは誰一人として一度も大麻が悪いとは言わなかった。彼らはプロとして大麻のことはよく調べ、海外の情報にも通じていて、なかには私より詳しい人さえいた。彼らのほとんどが大麻を体験しており、それがタバコや酒より害のないことも知っている。なかには大麻を吸ってレゲェバンドをやっていたという人もいた」という発言である。

 これに対して金井塚康弘弁護士から「大麻を吸ったことのある人かどうかは分かりますか?」という質問があり、被告が「話をしてみればすぐ分かります」と答えた時、若い裁判官は微笑して頷いていた。そこで被告は「麻薬取締官たちの言うには『我々は大麻の無害なのを知っている。しかし我々の仕事は例えどのような法律であれ法に違反した人間を捕えて取調べることであり、それが良いか悪いかを決めるのは裁判官の仕事だ。だから我々もあんたがどう裁かれるのか興味をもって見ているよ』と言っていたと麻薬取締官たちの実態を暴露した。

 麻薬取締官大麻の情報を集め、ガサ入れで押収した最高級の大麻やハッシシーを吸っているだろうことは想像に難くないが、それが真実のみを語ると誓った法廷で被告の口から公言されたのは初めてのことだろう。それに対して検事側から一言の反論もなかった以上、これは”公知の事実”となるだろう。かくて「大麻=無害、大麻取締法=悪法」という事実を知りながら麻薬取締官がそれを検察庁に教えないため、思考停止状態にある検事と判事は、数10年来の”公知の事実”によって、殺人罪並みの重刑を課するというアナクロニズムに陥っているのだ。

 しかし今回、桂川被告の口からその事実が公表された以上、検察庁法務省も”公知の事実”の誤りを認めるしかあるまい。控訴審に何を望むかと問われた被告は「”公知の事実”などという人をばかにしたような言葉ではなく、もっと納得のゆく言葉で説明してほしい」と答えた。司法官僚の道義的責任と自己欺瞞が今後厳しく問われるだろう。

「最後に何か言っておきたいことありますか?」と丸井弁護士が尋ねた時には、もう制限時間が切れていた。「言いたいことはいっぱいあります」という被告の声を裁判長はさすがに無視できなかった。そこで弁護士の要請に従って、被告人質問は次回10月13日に持ち越されることになった。普通控訴審は1回で終わると言われているから異例の第2ラウンドである。押せ押せムードの中で退場する被告の背に、傍聴席から拍手が上がったが、裁判長のおとがめはなかった。


公判後、弁護士会館において2人の弁護士を囲む説明会があった。今回の40名近い(赤ん坊、幼児含む)の傍聴人は関西在住の麻の民の他にも、東京からは一審の救援活動を担当した麻生結氏と「カンナビスト」のメンバー7人、桂川事件に関連してパクられた「大麻堂」の前田耕一氏やラバーズのメンバー、カンナビストに替わって控訴審の救援活動の中心を担うことになった地元安曇野勝手連のクマと、全国勝手連のポンなど、多種多様な麻の民が集結した。長らく分裂し、反目し合い、群雄割拠の感さえあった「フリー大麻」運動は桂川弾圧を機に、控訴審に向けてついに大同団結にこぎつけたのである。この獄中と獄外をつないだ共同戦線は、世界的なヘンプ・ブームや「マリファナ・マーチ」などの勢いに乗って大麻解放へ向かって大きく踏み出すだろう。それは麻の民のボルテージを一気に上昇さすに違いない。
(*イラストは右:丸井弁護士、左:金井塚弁護士)

 獄中者の救援とか、獄中闘争支援というのも物の言いようであって、実は桂川氏の不屈の信念と情熱に救援され支援されているのは、シャバの雑事と時代のニヒルに流され、溺れかかっていた我々の側ではないのか。

 暴力と陰謀が世界を覆い、物質文明末期を迎えて悪化する環境と劣化する人類。金満日本によって失った心の空虚を襲うまたぞろ日の丸ファシズム、追いつめられる市民運動のなかにあって治安維持法化する大麻取締法を粉砕し、アメリカの影から脱出するべく、ヨーロッパ並みの大麻非犯罪化、合法化への道をたたかう麻の民。「弾圧が強まる程に連帯の絆は深まる」という格言もある。桂川氏の身に集中した弾圧の痛みが、いま全国の麻の民を決起させて「フリー大麻」の運動は活性化してゆくのである。これが「麻の仕組み」であり「人民の力学」というやつだ。


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 9月17日から3日間、四国土佐中村にて「オープン ヘンプ ギャザリング」というイベントが催され、丸井英弘、中山康直、赤星栄志などヘンプ系の諸氏が参加。主催者の本宮裕邦君(キンドー)は数年前までは安曇野に住み、桂川グループの一員だったこともあって、私も参加したかったのだが体調がすぐれず、直後に催された伊予しめが浦のイベントに2日間だけ参加した。こちらは昨年の「太陽と月の祭」にも参加しているので大半が顔なじみ。そして「88いのちの祭り」以来の懐かしい問題児にも再会した。



修  羅

ウルセー キサマラ ナメンジャネ―――!
大声で歌っていた50男が 突然
ギターを投げ出して 立ち上がった
一瞬 ラヴ&ピースの渚に 緊張が走る
まるで楽園に乱入した野獣のように
このところあちこちの祭りに登場して
修羅を燃やす 中年ヒッピー
「またか オッサン いい加減にしてくれよ」
陽気にはしゃいでいた若者達が
異口同音につぶやいて 黙りこむ

オレハ ナニモカモ キニイラネーンダ―――!
長いひきこもりから 脱け出して
昔なじみの祭りに参加してみたが
自分の出番も 場所も見つからず
アルコール無しの幼児退行でわめき散らし
出刃包丁をふりかざして若者を追いかけ
海にとびこんで 頭を冷やした
「あゝなっちゃ お仕舞いだな・・・・」
ヒッピージュニア世代の反面教師になって
黄昏のフリークは海の中で さめざめ泣いた
    
コドモタチノマエデワ ドナルナ―――ト 昔
ポンカラ言ワレタ事ワ 忘レチャイナイゼ――だと
バカな奴め あの頃の子供たちが
今ここにいる 若者たちじゃないか
おまえのそれは不治の病なのか?
レダッテ治ソウト思ッテ反省シトルダ――
暴力は出るのか?
ソレガ ヤッパリ出ルダヨ―――
暴力が出るようじゃ 身の破滅だぜ
おまえ まだまだ吸い足りないんだよ
     
夕陽を浴びて 寄せるさざ波
おれはふと 宅間のことを思った
ガンジャも知らずに あっさり死刑にされた
子殺しの修羅のことを
                
04,9  伊予 しめが浦


余談ながら、池田小学校へ乱入して、多数の児童を殺害した犯人宅間守は、桂川君が収監されている大阪拘置所で処刑された。私が桂川君と面会した一週間後のことである。日本という国は発展途上の野蛮国なのだ。

3美麻フェスティバルに参加 04.8

BonShancar2005-01-04

 控訴審の準備期間中の8月、桂川君の地元信州安曇野の一角で、大麻産業の復活を期すイベントが催さた。栃木県と並んで、戦前は大麻産業で有名だった長野県では、最近のヘンプ・ブームに乗じて、伝統の地場産業を復興する気運が生じた。
 ただし問題は栽培免許申請の煩雑さにあった。元栽培農家の要望は、現行の知事レベルから市町村長レベルに、免許取得を簡略化することであり、美麻村のイベントもそのためのデモンストレーションだった。

 5月末の救援拡大会議に次いで、再び安曇野を訪れた私は、8月13日から15日まで、「美麻フェスティバル」に参加し、スタッフを担当した安曇野勝手連の仲間たちと共に、産業ヘンプのグッズに目を見はり、アトラクションを楽しんだ。私の麻里花詩の朗読には「ノースマウンテン」のバンドと、丸井さんの尺八が伴奏についた。


ヘンプ・ブーム 
      
信州安曇野は“美麻”という名の村で
戦後アメリカ占領軍につぶされた
伝統の地場産業を復活せんものと
“道の駅”を会場に 商工会が主催する
輸入ヘンプの茎と実による産業見本市
    
内外のヘンプ業者が 持ち寄ったのは
ヘンプ繊維 ヘンプパルプ ヘンプ建材
ヘンプオイル ヘンプ食品 ヘンププラスチック 
ヘンプビール ヘンプアート ヘンプ化粧品
そして地元特産のヘンプミュージック
 
道の駅に立ち寄ったドライバーたちが尋ねる
「ここに集まっているのは どういう人たちですか?」
「なんだか特殊な人種みたいですね」
ヘンプクッキー売りの若者が答える
「いいえ 麻を愛するフツーの人たちですよ」
    
“美麻フェステバル”の翌日 別会場で
ヘンプの葉と花への差別に反対する
親THC派の麻の民が
安曇野の栽培家を奪還すべく
反弾圧マリファナ会議を開いた
   
04,8   信州 安曇野

2全国勝手連の形成04.5〜7

BonShancar2005-01-03

 私に救援運動の出番が回って来たのは、昨04年春、大阪地裁が桂川君に対して、「懲役5年、罰金150万円」という、大麻事犯としては最重刑の判決を下した後のことだ。
 このでたらめな判決に対して、桂川君はすかさず控訴したが、一審の救援を担当した「カンナビスト」には、控訴審を斗う展望がなく、この時点で救援活動は桂川君の地元である信州の「安曇野勝手連」にバトン・タッチされていた。

 私はと言えば、7年前から喘息のため酸素吸引器付きの身となり、行動に制限があるうえインターネットも持たず、運動の前線から引退したつもりでいたが、盟友桂川君の苦境を座視しているわけにはいかなかった。
 そこで私は唯一の可能性として、大麻裁判のベテランで、20年来の友人である丸井英弘弁護士に相談してみようと思い、桂川君にもその旨を伝えた。
 5月初句、私は「安曇野勝手連」の窪田明彦君(クマ)と、「ラバーズ」の白坂和彦君と共に、国分寺の丸井弁護士を訪れ、桂川裁判について相談した。もとよりそれは、単なる個人救済のレベルではなく、大麻解放という運動レベルでなければ無意味であり、それは必然的に運動の再構築、即ち大同団結を要求していた。

 10年前、桂川君を発起人として結成した「麻の復権をめざす会」は、95年に中央大学の学園祭で「マリファナ・シンポジウム」を開くなど、大麻解放運動を大きく前進させたにも関らず、わずか2年足らずで分裂、解体して以来、運動は群雄割拠の内紛状態にあった。
 5月末、安曇野勝手連の呼びかけで、「桂川救援拡大会議」が催され、「カンナビスト」の麻生結氏、「医療大麻を考える会」の前田耕一氏、「関西勝手連」の真鍋憲太郎氏、「ラバース」の白坂和彦氏など、約30名の″麻の民・が集まった。この席で私は、控訴審の救援を担当する「勝手連」を全国レベルに拡大すること、獄中との交信をはかるため、窪田君を編集長、私を編集顧問とするミニコミ誌(後に『アナナイ通信』と命名)の発行を提案した。一方、丸井弁護士は大阪拘置所桂川君と接見し、意気投合して弁護人を引き受け、主任の金井塚康弘弁護士とコンビを組むことになった。

 さて、6月に秩父から寄居に引っ越した私は、手始めに最近の詩13篇に『麻里花詩集』というタイトルをつけて自費出版し、数百名の友人、知人に配布して多大なカンパを頂き、それを活動資金にして救援運動を開始した。(詩集在庫あり、申し込みはポンへ)

 
この詩集の最後の一篇「麻の仕組み」は、桂川君に捧げたものだがそれは勝手連の新しい運動の発火点ともなった。


獄中の麻爆弾犯人  桂川直文氏に捧ぐ

           《 麻の仕組み 》 ※1
      
         辛酸 佳境に入る ラスト・ステージ
         追いつめられ 閉ざされていく 心の世界
         右翼民族主義に 外堀を埋められ
         左翼合理主義に 内堀を埋められ
         国家権力に包囲された 本丸で
         やがて 待ちに待った運命の日に
         われら規格外れのフリークスが
         全員 腹を決めて 身を淨め
         祭り衣裳で身を包み 晴れやかな笑顔を揃えて
         「ラヴ&ピース」と非暴力の勝利を祈り
         世界同時革命の“麻爆弾”を 一発決めて
         「オーム ボン シャンカール!」

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         
         おお 三千世界一度に開く 麻の花 !
         まことの世界が 黄泉がえるぞよ !
         さあ 世直しじゃ 立て替えじゃ !
         アナナイ様のお出ましじゃ ! ※2

※1 戦前大弾圧を受けた大元教出口王仁三郎の「霊界物語」より

※2 アナナイ(麻柱)=高い所へ登る足がかり、足場。(広辞苑
   柱は神を指す。「霊界物語」にアナナイ教(三五教と書く)あり。

1一審判決までのあらまし 04.4

BonShancar2005-01-02


 桂川直文君は1951年、長野県北安曇郡池田町で、3人兄弟の次男として出生した。
高卒後は父親が経営する印刷屋と若干の田畑を手伝いながら、大麻やキノコの世界を知った。我々の出会いは、私が飛騨にUターンした87年、デットヘッズのキヨシ(吉井清)の紹介だった。飛騨と信州安曇野という、北アルプスを跨いだ隣同士とあって、「縄文大麻文化圏」のヴィジョンを共有し、イベントやミニコミ作りなど様々な面で協力し合った。

 大麻取締法で92年に私が、93年に桂川君がパクられ、執行猶予中の94年に「ミヤケン裁判」を支援する形で、桂川君が発起人となって「麻の復権をめざす会」を結成、95年には中央大学学園祭でマリファナ・シンポジウムを開催するに至ったが、翌96年のNHK訴訟問題で分裂、解体してしまった。
 96年アムスの「カンナビスカップ」に参加した桂川君は、わが国の後進性を痛感し、厚生省麻薬課に直接掛け合って大麻の研究免許を申請するが、条件付で栽培免許を得た。

 大麻の茎を採るための栽培免許では、葉と花は焼却処分せねばならないが、この処分を研究に回しても宜しいというお達しである。そこで桂川くんは研究の輪を拡げ、医療大麻を求める患者達を研究の対象にしたり、品評会を目的にパーティを催して焼却処分にするなど、研究を重ねて来たが、根が真っ正直な彼は、オカミのお達しとはいえ栽培用の免許で研究することに納得できないものがあった。そこで02年、長野県に田中知事が誕生したのを機に、年に一回の大麻栽培免許申請に際して、「研究用」ととして申請したのだ。

 要するに茎だけではなく、葉や花も研究させてくれということなのだが、田中知事からは何の連絡もなく、夏頃出した催促状にも返事はなかった。そこで桂川君は「黙認」されたものと解釈し、03年春には申請も出さなかった。これについて私は「形だけでも再度申請すべきだ」と主張したのだが、彼は自信があったらしく無免許で栽培に踏み切り、7月14日、近畿厚生労働省麻薬取締部によって逮捕された。

 押収された大麻は3.5キロ、栽培94本と、特別に量が多いわけではない。しかし覚醒剤MDMA,きのこなどが各1グラム前後あったことと、故、中島らも、佐藤明(マッハ25)などの有名人が、10万円程度のカンパをしていることなどから、表は大麻解放運動のリーダーを装いながら、裏では営利目的の麻薬組織の首謀者であると見なされ、というより当局は前もって予断と偏見に基いた虚像を作り上げ、それに対して重刑をかけて来たのだ。従って裁判は事実行為を裁くという枠をこえて、被告の思想信条に対して弾圧を行って来たのである。そのため審議らしい審議はほとんど行われず、被告に発言の機会もないまま、「大麻の有害性は公知の事実である」という理由で、5年の懲役刑を下したのだ。 

 桂川君は信州人らしい反骨精神と、郷土に対する深い愛着と造詣をもつ社会人である。多少の旅行はしたにせよ、安曇野地方から外へ出て生活したことのない土着ネイティヴだ。私のようにデラシネ(根無し草)的なガンジャ・フリークとは別種の“麻の民”である 私の内なる神秘主義的傾向を刺激して来た桂川情報とは、『日月神示』や『霊界物語』であり、UFOであり、ラヒ・バトラであり、レイヴであった。「レインボー2000」は彼に誘われて行った。しかしなんといっても信頼と尊敬に値するのは彼の嗅覚だ。無類の美食家としての味覚も相当なものだが、大麻を嗅ぎ分ける嗅覚の鋭さたるや、彼の右に出る者はいない。私の出会った内外のガンジャ吸いの中でもトップクラスの鼻の持ち主なのだ。だから、「国産ハイブリット」を作れるのは、あの鼻をおいて無い。

はじめに

BonShancar2005-01-01

 ブッシュという愚な大統領を看板に立てた、恐るべき陰謀家たちの巨大帝国アメリカが、大量破壊と大量殺戮によって、世界を破局に追いつめつつある危機の時代に、大麻どころの話ではないと人は言うだろう。だがそれは大麻を趣味嗜好のジャンルでしか見ていないからだ。

 最近ヨーロッパから波及して来た「ヘンプブーム」に見られるように、大麻は衣食住から医療やバイオ・エネルギーまで、石油に代替する高度で持続可能な植物資源なのである。
従って石油の海に浮かぶアメリカの産業資本にとっては、大麻草の存在そのものが脅威であり、大麻ジェノサイドはアメリカの国家戦略なのだ。

 戦後、アメリカの占領政策によって制定された大麻取締法は、わが国の伝統文化や精神世界を否定すると同時に、アメリカ型の石油文明が産業構造から社会生活までを大きく転換させてしまった。その結果日本は経済的にも、政治的にも、文化的にも完全にアメリカの属国と化し、今やアメリカの戦争に駆り出されて、滅亡への道をまっしぐらである。

とはいえ、年間2000人にも及ぶ無実の人々を逮捕し、わが国を世界一の大麻後進国に貶めて来た大麻取締法にも、制定56年目の昨年になって、巨大地震の前兆のような揺すぶりがかかった。時代の趨勢がアメリカの嘘とペテンを許さなくなったとも言えるが、具体的にはこの稀代の悪法に挑戦する筋金入りの確信犯、桂川直文氏の登場が新しいドラマの幕を明けたのである。

 そう、ラブ&ピースの大麻こそは、アメリカ帝国の内部崩壊を手伝い、荒れはてた心の日本を救う、オルタナティブ・カルチュアの秘密兵器なのだ。
さて、04年も祭り納めた年の瀬に、スマトラ沖地震によるインド洋沿岸の大津波が、大自然の脅威を再確認させた。この警告をもって人類が憎しみの連鎖を断ち、相互扶助の精神にたち帰ることを祈るばかり。

 では桂川裁判を中心に、大麻をめぐる新しいドラマを、折々の・アナナイ詩・を交えながら初めてインターネットを通して語ってみよう。ボン シャンカール!!


                    2005、正月 ポン山田塊也

勝手連

友人とはじめて訪れた埼玉でポンさんと出会った。

案件は桂川氏の裁判の状況とこれからについて。

ただのガンジャフリークであった自分には衝撃的な出会いの様で

当然の出会いだったのかもしれない。

それまで自分の心の中で矍鑠(かくしゃく)としていたものが、

すぅっと染みていった。

それぞれができる範囲で行動していく。

それが勝手連として大事なこと。

まずは麻の民々に情報を発信すること。

これから始めていきたい。 



ポンさんの大麻遍歴

1937年正月2日 飛騨高山(岐阜県)に誕生。この年アメリカでは48州のうち46州が大麻を禁止した。

1948年 小学四年生より二年間、脊椎カリエスを病み“せむし”となる。GHQマッカーサーにより日本に大麻取締法が制定された。

1966年 フランス人ビートニックを囲んで、新宿ビートニック数人と大麻初体験。

1967年春 ヒッピーコミューン“部族”結成。信州の「雷赤鴉族」の畑に種を蒔く。
夏、諏訪瀬島にてLSD初体験。
秋 雷赤鴉族にガサ入れ、大麻草約20本摘発される。任意出頭に応じて諏訪検察庁に赴き、何も知らない検事長大麻取締法の存在と占領政策を教示する。

1968年 東京・国分寺の“部族”コミューンにガサ入れ、5名逮捕。マスコミによるヒッピー・バッシング。長期拘留の末、公判資料不足のため起訴猶予となる。

1969年 “部族”の仲間たちが北海道より野生の大麻を持参、各地のコミューンにて ボン!

1971年 初のインド旅行。カトマンズやゴアはヒッピー全盛期、フリースモーキングを満喫。

1974〜75年 国分寺を拠点に「諏訪瀬島を守れ!ヤマハボイコット運動」を展開、 →参照 

カウンター・カルチュア運動の交流を通して、ブッダスティック、アカプルコゴールド、ケララガンジャなどのブレンド大麻の味を知る。

1982年 二度目のインド。バラナシにてガンガーの渡し守より「シヴァ・マントラ」を授かる。ハーベストのヒマチャルでは、チヤラスの絶品「パールヴァティ」に出会い、2ヶ月間滞在。

1983年 インドからの帰り、台湾航路にてパールヴァティ500gを密輸。

1988年 ミニコミ『ドラッグ・レビュー』6号(武蔵野法律事務所 発行)に、67年の摘発事件について執筆、寄稿。

1990年 『アイ・アム・ヒッピー』を第三書館より刊行。ただし彼我の状勢により大麻についてはインド体験のみ、国内での体験は記述しなかった。

1992年 3度目のインド旅行の帰国時、成田空港にてチヤラス40gで逮捕。懲役2年、執行猶予4年。

1993年  「ミヤケン裁判」を機に、桂川直文氏を発起人とする「麻の復権をめざす会」の結成に参加、ミニコミ『FREE TIME』に「大麻弾圧・抵抗史」を「芝原凡々」の名で執筆。

1995年 『マリファナX』(第三書館)に実名で、大麻とLSD体験を執筆、丸井英弘、前田耕一、桂川直文の3氏と共に大麻コンサルト然と住所、電話まで明示。
文化の日中央大学学園祭にて、「意識を変える麻が世界を救う」というシンポジウムを「麻の復権をめざす会」が開催、パネラーとして出演。参加約250人。

1996年 執行猶予中なのに「冬期国体反対」のステッカー貼りでパクられ、大麻取締法にビビって全面自供。罰金は共犯者共45万円の一敗地にまみれた。

1997年 4度目のインドはバラナシの「シヴァ・ラートリィ」に遭遇、大麻の守護神を祝って大麻全面解禁の「ハラハラ・ボンボン」を祭る。

1998年 肺活量が常人の3分の1となり、酸素吸引器付きの身となる。福祉のおかげで喘息の漢方薬がまだまだ吸える。ありがたや!

1999年夏 高山の自宅にガサ入れ。所持20g、栽培12本で逮捕。留置場は一泊で釈放、通いで取り調べとなり、起訴される。

2000年春  大麻取締法違反にて懲役1年6ヶ月、執行猶予2年の判決。

2001年 『トワイライト・フリークス』ビレッジプレスより刊行。大麻について開き直って書いた。

2003年 5月、吉祥寺井の頭公園の「第三回マリファナ・マーチ」に参加。とび入り
で詩「平和の敵」を朗読。
7月、桂川直文氏逮捕。→大麻取締法被害者センター →CANNABIST

2004年春 桂川救援のため全国勝手連を呼びかけ、代表となる。『麻里花詩集』を自費出版控訴審のため大阪高裁通い。
年末は大阪にて「ボンボンサーカス」を祭る。

2005年正月 インターネット「アマナクニ」のHPに、「ヒッピー印・“ポン”山田塊也」を開設。