勝手連

友人とはじめて訪れた埼玉でポンさんと出会った。

案件は桂川氏の裁判の状況とこれからについて。

ただのガンジャフリークであった自分には衝撃的な出会いの様で

当然の出会いだったのかもしれない。

それまで自分の心の中で矍鑠(かくしゃく)としていたものが、

すぅっと染みていった。

それぞれができる範囲で行動していく。

それが勝手連として大事なこと。

まずは麻の民々に情報を発信すること。

これから始めていきたい。 



ポンさんの大麻遍歴

1937年正月2日 飛騨高山(岐阜県)に誕生。この年アメリカでは48州のうち46州が大麻を禁止した。

1948年 小学四年生より二年間、脊椎カリエスを病み“せむし”となる。GHQマッカーサーにより日本に大麻取締法が制定された。

1966年 フランス人ビートニックを囲んで、新宿ビートニック数人と大麻初体験。

1967年春 ヒッピーコミューン“部族”結成。信州の「雷赤鴉族」の畑に種を蒔く。
夏、諏訪瀬島にてLSD初体験。
秋 雷赤鴉族にガサ入れ、大麻草約20本摘発される。任意出頭に応じて諏訪検察庁に赴き、何も知らない検事長大麻取締法の存在と占領政策を教示する。

1968年 東京・国分寺の“部族”コミューンにガサ入れ、5名逮捕。マスコミによるヒッピー・バッシング。長期拘留の末、公判資料不足のため起訴猶予となる。

1969年 “部族”の仲間たちが北海道より野生の大麻を持参、各地のコミューンにて ボン!

1971年 初のインド旅行。カトマンズやゴアはヒッピー全盛期、フリースモーキングを満喫。

1974〜75年 国分寺を拠点に「諏訪瀬島を守れ!ヤマハボイコット運動」を展開、 →参照 

カウンター・カルチュア運動の交流を通して、ブッダスティック、アカプルコゴールド、ケララガンジャなどのブレンド大麻の味を知る。

1982年 二度目のインド。バラナシにてガンガーの渡し守より「シヴァ・マントラ」を授かる。ハーベストのヒマチャルでは、チヤラスの絶品「パールヴァティ」に出会い、2ヶ月間滞在。

1983年 インドからの帰り、台湾航路にてパールヴァティ500gを密輸。

1988年 ミニコミ『ドラッグ・レビュー』6号(武蔵野法律事務所 発行)に、67年の摘発事件について執筆、寄稿。

1990年 『アイ・アム・ヒッピー』を第三書館より刊行。ただし彼我の状勢により大麻についてはインド体験のみ、国内での体験は記述しなかった。

1992年 3度目のインド旅行の帰国時、成田空港にてチヤラス40gで逮捕。懲役2年、執行猶予4年。

1993年  「ミヤケン裁判」を機に、桂川直文氏を発起人とする「麻の復権をめざす会」の結成に参加、ミニコミ『FREE TIME』に「大麻弾圧・抵抗史」を「芝原凡々」の名で執筆。

1995年 『マリファナX』(第三書館)に実名で、大麻とLSD体験を執筆、丸井英弘、前田耕一、桂川直文の3氏と共に大麻コンサルト然と住所、電話まで明示。
文化の日中央大学学園祭にて、「意識を変える麻が世界を救う」というシンポジウムを「麻の復権をめざす会」が開催、パネラーとして出演。参加約250人。

1996年 執行猶予中なのに「冬期国体反対」のステッカー貼りでパクられ、大麻取締法にビビって全面自供。罰金は共犯者共45万円の一敗地にまみれた。

1997年 4度目のインドはバラナシの「シヴァ・ラートリィ」に遭遇、大麻の守護神を祝って大麻全面解禁の「ハラハラ・ボンボン」を祭る。

1998年 肺活量が常人の3分の1となり、酸素吸引器付きの身となる。福祉のおかげで喘息の漢方薬がまだまだ吸える。ありがたや!

1999年夏 高山の自宅にガサ入れ。所持20g、栽培12本で逮捕。留置場は一泊で釈放、通いで取り調べとなり、起訴される。

2000年春  大麻取締法違反にて懲役1年6ヶ月、執行猶予2年の判決。

2001年 『トワイライト・フリークス』ビレッジプレスより刊行。大麻について開き直って書いた。

2003年 5月、吉祥寺井の頭公園の「第三回マリファナ・マーチ」に参加。とび入り
で詩「平和の敵」を朗読。
7月、桂川直文氏逮捕。→大麻取締法被害者センター →CANNABIST

2004年春 桂川救援のため全国勝手連を呼びかけ、代表となる。『麻里花詩集』を自費出版控訴審のため大阪高裁通い。
年末は大阪にて「ボンボンサーカス」を祭る。

2005年正月 インターネット「アマナクニ」のHPに、「ヒッピー印・“ポン”山田塊也」を開設。